BUT NOT REALLY

2024年12月27日/ やさしい哲学


『 The Giving Tree 』  Shel Silverstein  1964

BUT NOT REALLYシェル・シルヴァスタインの絵本「おおきな木」は、日本では1976年に本田錦一郎の翻訳で出版されて以来、ロングセラーを続けています。

     2010年に村上春樹の翻訳版が出版されてるけど、上の動画は本田錦一郎訳のものです。
     2人の翻訳は根本的に異なり、そこを含めて「続きを読む」以降に記述したいと思います。

     まあ話が進まないので、とりあえず、上の動画を見ていただければと思います。

















『 Long Yellow Road 』  穐吉敏子  1961

BUT NOT REALLY日本人ジャズ・ピアニストの「生ける伝説」と呼ぶべき存在、穐吉敏子さん。
95歳にして現役であり、今もライブで演奏される彼女のテーマソング、「黄色い長い道」です。

     アメリカを拠点に、グラミー賞に計14度もノミネート(未受賞)されるほど、偉大な存在です。
     この曲は本当にクールだと思う。 もし気に入ったら、彼女のアルバムを置いておくのでぜひ。

     ちなみにシェル・シルヴァスタインは作詞作曲と自作の詩で、2度グラミー賞を受賞している。
     この記事の最後に受賞した詩集のタイトル作品も載せておくので、こちらもよかったらどうぞ。

    BUT NOT REALLY 












BUT NOT REALLY「おおきな木」というタイトルの翻訳は共通していますが、直訳すれば「与える木」になります。
そこから木が少年に何かを与える度に、「木はうれしかった(幸せだった)」と繰り返されます。

     決定的に異なる翻訳は、木が切り株だけになってしまった場面。
     「And the tree was happy…  but not really.」 の翻訳です。

     本田錦一郎は、「きは それで うれしかった… だけど それは ほんとかな?」と訳す。
     村上春樹は下記のように、「それで木はしあわせに…なんてなれませんよね」と訳している。

     「not really」を直訳すると「本当ではない」だけど、実際は「no」の曖昧な表現だ。
     つまり、「そうでもないかな」とか「ちょっと違うかも」といったニュアンス。

     ここは木自身の発言ではないので、作者(もしくは翻訳者)のナレーション部分。
     だから、この2つの翻訳の違いは、物語全体の意味を大きく決定づけることになる。

     つまり、木の与える行為は、無償の愛なのかどうか、という作者の意味づけにおいて。
     与える木が「世界」的な存在なのか、「社会」的な存在なのか、という意味において。

     本田錦一郎の立場は前者であり、村上春樹は後者であるといえるだろう。

BUT NOT REALLYBUT NOT REALLY

NHK 100年インタビュー (2010) 谷川俊太郎 (動画参照) 下
            https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009072077_00000


















BUT NOT REALLY 以上の話を踏まえつつ、一度物語を離れて、哲学者ニーチェ的に、より深めて考えてみよう。

     私たちが善人のように振る舞うこと、もしくは社会に道徳的な秩序があるように見えること。
     それは、その方が損得勘定で得だから、にほかならない。
     
     私たちは、もしくは私たちの社会は、決して「善そのもの」に動機づけなど持ってはいない。

     つまり、損得勘定がベースにあって、みなが善人らしく振る舞っているだけの、クズなのだ。
     ハッキリ言おう。 善や秩序があるなんて、嘘だ。

     人々の利害関係から外されてしまった社会的弱者は、自らの存在をかけて復讐するだろう。
     無差別殺人などが起こるのは必然であり、その行為はある種の道徳や倫理を含んでいる。

     あなたには、この逆説が理解できるだろうか?


SHARP 「AQUOS R9」CM 2024














BUT NOT REALLY「おおきな木」に話を戻して、7歳から16歳の世界の子供たちの感想文を読み解くと、欧米では木を神や自然の象徴と受けとるのに対し、日本人は母の象徴と受けとるのだそうだ。

     結果、日本の子供だけは、木の本音と建て前を感じ取り 村上春樹的な受け取り方をする。   
     「木は本当はつらかった」「本当は逃げ出したかった」「本当は憎んでいた」と推測するのだ。

     「木はうれしかった」って、何度も繰り返し書かれているにも関わらず…

     ただ小学2年生までの子供は、物語を聞いて想像するのではなく、実際に物語に「住む」!
     つまり、現実と物語の区別がつかず、「こんなしゃべる木はどこにあるの?」と感想を述べる。

     この時期までの子供たちは、ギリギリだけど「世界」を的確に捉えている!

     善悪を超えた第3の道が、いや第0の、というべき道がここにある、というか、かつてあった。
     もちろん、このままでは社会を生きてはいけないし、社会の客観的な姿とは異なるだろう。
    
     小学4年生までに、この感覚は消えるけど、誰しもが覚えているはずだ、心の深いところで。
     大人になった私たちも、ふたつの目で社会と世界を別々に見ることは、きっとできるはずだ。

















『 Finesse 』  Toshiko Akiyoshi Trio  1978













歩道の終わるところ


ここは歩道の終わるところ
車道の手前
やわらかい草が白く光り
太陽が真っ赤に燃えて
月夜鳥が羽を休め
ペパーミントの風に吹かれるところ

こんなところは出ていこう
ここは黒い煙が流れ
暗い道が曲がりくねっているところ
アスファルトの花咲く採掘場を横目に
ゆっくりと歩調を整えて歩いていこう
歩道の終わるあの場所へ

ゆっくりと歩調を整えて歩いていこう
チョークの矢印を追って
それは子供たちの矢印
子供たちは知っている
歩道の終わるあの場所を


    シェル・シルヴァスタイン 1974




Posted by candyball at 00:00│Comments(8)
この記事へのコメント
飴玉さん

全部の記事にコメントしたいと思いつつ、バタバタしており中々コメント出来ずにいます‍♀️
またまたタイムリーな記事で…一週間ほど前に「おおきな木」を読み返したばかりでした。
実は、原書も持ってるのはナイショです
Posted by nyota at 2024年12月29日 12:46
nyotaさん

原書って、英語版のことですよね。
確かにこの絵本は(詩もですけど)、翻訳の自由度が高過ぎます。

まず、タイトルを「寛大な木」と訳すこともできますが、ぼくはしたくない(笑)
そうなると、(作者の意図は不明ですけど)意味が変わってきますから。 

あと、「木」と訳されてるところも、オリジナルでは「彼女」だったりします。
記事の中では触れてないけど、作品理解には重要な要素ですよね。

なので、原書から自分で翻訳するのは、正解だと思います。
あと、全部の記事にコメントしたいのも、全くもって、大正解です(笑)

コメントを入れると、ぼくがどんな返信をするのか、すごく気になるでしょ?
記事を書くと、読者がどんな感想を持つのかが気になる、当然ですよね。

この絵本の、世界中の読書感想文でも、主人公の少年の評価は最悪…
木から受け取るだけの、わがまま野郎じゃねえかって話みたいです(笑)
Posted by candyballcandyball at 2024年12月30日 21:32
飴玉さん
こんにちは、お久しぶりです。
どんな言葉でコメントしようか、何をコメントしようかといちいち考えてるうちに気付けば記事を閲読するだけになってしまってました。

おおきな木、子どもの頃読んだ記憶があり
大人になった今、改めて読んでみるとあぁこんなお話だったなと思い出しました。

子どもの頃の感想は覚えていませんが
今の感想を書くとすれば、男の子も木もお互いのことが好きだったのだろうなと感じました。
あまり中身のある感想ではありませんが、、

木は会えると喜びながら成長する男の子を憂い、男の子もなんだかんだ木のことを忘れることはなく会いに来てくれるが最後は哀しい様子。
男の子は何も与えてない訳ではなく、木にとっては男の子の存在が与えられてるものになっているのかなと、、

幸せの中に残酷さがあると思いました。
Posted by 和猫 at 2024年12月31日 16:32
和猫くん

久しぶりだね。
大晦日にコメントくれるなんて、うれしいな。

ふむ、ぼく自身は、少年の立場でこの物語を読んだことがないんだよね。
だから、世界の子供たちが少年目線だったことが、まず意外だった。

よく考えたら、自分が子供だから、その方が自然なのかもしれないね。
「自分だったら」の目線が、少年の方に行っちゃうってことだから。

そんで少年は、金に困ったときだけ実家に来るバカ息子みたいになる。
木の方は、子供を甘やかしてお金を渡しちゃう母親みたいになっちゃう。

そういう解釈なんだろうね。 そうなると、ただの共依存だろって話かな。
お互い、好きでやってんだから、別にいいじゃないかって考えもあるしね。

社会的に、または人間的に見ると、そういう感じになるのかもしれない。
そしてそれは、小学4年生にはもう、身についてるんだよね、常識として。

飴玉的には、この物語をそういう構造で捉えたくはなくって、つまり、
それで互いに幸せなのかっていう枠組みを、超越したいんだよね、うん。

そういう意味で、最後に載せた詩を、よく味わってほしいなと思うよ。
Posted by candyballcandyball at 2024年12月31日 19:24
飴玉さん

そう、英語版の事です。
裏表紙にある作者の写真、中々のインパクトですよね(笑)

私は本田錦一郎氏の訳の方が好みです。
先ず、"giving"を"おおきな"と訳した事。
単に与えるだけの存在ではない事が窺い知れ、
自他の境界を超えたところにあるモノ(?)という風に、私は捉えています。
そして、なぜか谷川俊太郎さんの「空の青さを見つめていると」の中にある
「陽はたえず豪華に捨てている」という一文が思い出されます。

また、but not really.の訳については、
本田氏は、私たちの内面に対する問いかけ
村上春樹氏は、「そうだよね?」という共感を求めている
という風に感じました。

てか、世界の子どもたちの受け止め方はそうなんですね。
たしかに、ストレートに読むと共依存的な関係にある二人の物語…
って感じだし、私も視点を変えるとそんな風に見えなくもないです
反芻する事で見え方が変化するので、何度も読むうちに
また違う発見がありそうですね。
Posted by nyota at 2025年01月02日 12:40
nyotaさん

ぼくも本田錦一郎訳を支持します、もちろん。

村上春樹さんは、本当は日本語版タイトルも変えたかったみたいです。
出版社との兼ね合いで、実現しなかったみたいですけど…

彼をフォローするとしたら、基本的に直訳しようとしてるのは、わかるんです。
もし谷川俊太郎さんが翻訳してたら、また違ったものになってたでしょうね。

世界の子供たちは、まあ、あんな感じで、むしろ大人が読むべきかと。
そういう自由度の高さが、読み手の印象や翻訳にも表れてますね。

教科書に載ってた諸々も、大人が読み返してみるといいと思ってます。
それって実は当然の話で、そもそも子供が全部理解できるわけがない!

それどころか大人にもわかんないっていうか、そもそも正解がない(笑)
Posted by candyballcandyball at 2025年01月02日 19:29
小学2年生が世界を捉えるぎりぎりの境界線という所に興味を持ちました

世界と社会ってこのブログを読んでいると感じるものはあるのですが、言葉にしようとするとなんか私の語彙力では嘘くさくなってしまいコメントを書いてみたものの消してまた後で…と思っていたら年を越していました
でもそれもまた、このブログを読む楽しさだなと思っています
最近アニメの「チ。」を観てると、ここを読んでる時とちょっと似た感覚がしてきて面白いです
当たり前を疑っているからかな
話の内容は全然違うんですけどね、不思議!
Posted by さと at 2025年01月05日 07:13
さとさん

世界と社会については、記事の谷川俊太郎さんのインタビューがわかりや
すいと思って、入れてみたんだよね、まあ、わかってるとは思うけど。

例えていうなら、サンタさん問題かな。2年生までは、まあ大丈夫だと思う。
3年生であやしくなってきて、4年生だとかなりキビシイんじゃないかな。

プレゼントが欲しいから、「サンタさん、ありがとう」とか言ってても(笑)
つまり、そのへんで完全に、意味だけで言語を捉えようとするってことね。

「チ。」って異端の話だけど、そもそも親分のキリストが処刑されてるから。
このブログも、完全に異端だけど、まだギリセーフだと思っております…

これ以上やると、ノヴァクが来そう(笑)
Posted by candyballcandyball at 2025年01月05日 23:54
 
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