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『 おらんちゃん 』 MAYA MAXX 2021
『 そっといちどだけ 』 なりゆき わかこ・作 いりやま さとし・絵 ポプラ社 2009年
「絶対に泣ける」って、自分でハードル上げちゃダメなんだよね、これ鉄則でしょ、まったく。
ブツブツ言いながら見てたら、軽々とハードルを越えてきましたとさ …お、おそるべし!
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『 エゾリス 』 MAYA MAXX
「 こころはいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する 」 高村光太郎・書
「言葉のこと」
言葉は生き物であるから、自分で使っていながらなかなか自分の思うようにはならず、むしろ言葉に左右されて思想までがある限定をうけ、その言葉のはたらきの外へうまく出られない場合が多い。
人間の心情にはもっと深い、こまかい、無限の色合いがあるのに、言葉はそれを言葉そのものの流儀にしか通訳してくれない。
心の中のつきせぬ思いをどうしても口にそのまま出せないが、胸を裂いて見せたいと、昔からたくさんの恋人達が嘆いている。
言葉は人間に作られたものでありながら、独立したもののように勝手に動いて、人間の表現力をさまたげ監督して、一方的にあてがう。
「美」
普通考えているような眼や感情に、ただ綺麗に見える事物をただちに美とする考え方を、もう一歩深めてもらいたいと熱望している。
美とはけっしてただ綺麗な、飾られたものにあるのではない。
事物のありのままの中に美は存在する。
美は向こうにあるのではなく、こちらにあるのである。
高村光太郎・著 「美について」1941年より (飴玉により仮名遣い等を修正)
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『 林の中の象のように 』 MAYA MAXX 2023
もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるのならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念い(おもい)をおちつけて、ともに歩め。
しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。
愚かな者を道伴れ(みちづれ)とするな。独り(ひとり)で行くほうがよい。
孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。ーーー林の中にいる象のように。
仏陀の言葉と言われている。
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『 Bolero 』 Joseph Maurice Ravel 1928
中学生の音楽、鑑賞教材シリーズの、たぶん最終回は、「ボレロ」です。
「ボレロ」は、スネアドラム(小太鼓)だけが、最初から最後まで通しで演奏される。
様々な楽器のソロで、ふたつの主旋律を繰り返すという、最もシンプルな構造の曲です。
それなのに、後半にいくにしたがって、オーケストラが凄まじい一体感を生み出していく。
聴く者も当然、そこに巻き込まれていくという、魔性の曲です。
難しい解説は不要、映像を見ればわかるので、イヤホン等を使って大音量で聴いてください。
「17分30秒は長いし、この曲、よく知ってるよ」なんて、決してあなどることなかれ。
追伸 : 指揮者のおじさんがいい感じ過ぎてて、好きにならずにはいられず、ふるえました。
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『 作品名不明 』 MAYA MAXX
『 かみさまはいる いない? 』 谷川俊太郎・文・朗読 清川あさみ・絵(刺繍) 2012
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『 Be kind and have the courage,Future 』 MAYA MAXX
アニメの世界には稀に、その枠を超えて社会に波及する作品が存在する。
1979年の「機動戦士ガンダム」、1995年の「新世紀エヴァンゲリオン」などが、それにあたる。
そして、2011年の「魔法少女まどか☆マギカ」も、その中に加えられる。
このアニメは、一見するとロリータ系の魔法少女モノと敬遠されがちだが、その内容は凄まじい。
男女問わず、この作品は見ておくべきだと言っておきたい。
普段は無料のものしか紹介しないけど、サブスクなんかで見られるのなら、ぜひ見ておいてほしい。
もちろん、無料で見られる状況になったら、いつものように紹介しようとは思うけど。
ここからは、ネタバレしない程度に説明する。
キュゥべえという白い猫のようなマスコットキャラ(画像参照)が、どんな願いも1つだけ叶えることと引き換えに、魔法少女になって人類の敵を倒すよう勧誘する。
契約した少女たちは、願いを叶えて魔法少女となり、命がけで魔女と戦うことになる。
ここまでは、ありがちなストーリー展開なのだが、問題はキュゥべえが功利主義者であることなのだ。
「功利主義」とは、哲学の一部の倫理学という分野で、集団の利益を最優先とする考え方のこと。
有名な「トロッコ問題」だと、暴走するトロッコの線路上の先に、5人の人がいるが、あなたの目の前に線路の分岐の切り替えレバーがある。
あなたが切り替えレバーを操作すれば、トロッコの行き先は変わり、5人は助かるが、行き先が変わったトロッコの線路上にいる1人は死ぬ。
この場合、集団の利益を最優先し、5人を助け、1人を犠牲にするのが功利主義というわけだ。
もっともらしい考えではあるが、あなた自身が手を下すというところが、重要なポイントになる。
キュゥべえは、功利主義に付きものの、犠牲に対する感情的な迷いを、一切持ち合わせていない。
ここが、魔法少女モノのストーリーを逸脱する、キモになる部分だ。
ここで哲学に話を変えて、考えてみよう。
この世界に意味はない、ということを今まで説明してきたけれど、この世界のあり方を「情報」と捉え直すとするなら、情報そのものに意味はないが、「意図はある」と考えざるをえない。
ある情報が存在するということは、その性質上、必ず意図が存在するということになる。
つまり、創造された側(私たちのこと)にとって世界に意味はないが、世界を創造した側には、何らかの意図があると想定するしかない、ということだ。
なので創造者は、微少な「部分情報」である個人が不幸になろうが、災害が起ころうが、逆にいえば幸福であったとしても、どうでもいいということになるし、実際にそうなっているといえる。
あの、イエス・キリストでさえも、処刑という最期であったことは、その最たる例であろう。
「神は人間を愛している」というイエスの主張は、人間がその愛を理解できるということを意味しない。
哲学者ニーチェは、140年前に「神は死んだ」と喝破し、数学者ゲーデルが100年前に証明する。
神なき世界に何を望むのかを、私たちは覚悟をもって決意すべきだと、ニーチェは主張した。
ちなみに仏陀は、完全情報(世界)を、「空」と「縁起」で説明しようとしたのだと思われる。
繰り返すが、世界そのもの(完全情報)には、私たちには知りえない、創造者の何らかの意図がある。
何かを言っているようで、何も言っていないような文章になっちゃったけど、何かを感じてもらえれば。
まあ、「トロッコ問題」だけでも、リアルに現場を想像して、自分ならどうのするかを考えてみてほしい。
かくして魔法少女たちもまた、神なき世界で各々、自分なりの決断を下すこととなる。
そして飴玉少年は、神なき世界で最後に残された、「存在」とは何かという問いを立てることとなる。