メルロ=ポンティについて(その2)
2007年08月31日/ やさしい哲学
これまで「やさしい哲学」では、さまざまな「常識」ともいえる事柄を疑い、検証してきました
そして前回、純粋な世界認識にとって最後の壁になるのは、「身体感覚」であることを確認しました
今回は、「身体に立ちかえること」を語ってみようと思います
わたしたちの一般的な理解としては、視覚、聴覚、嗅覚、触覚などを備えたこの肉体全体が、世界と接触する境界である、と認識されていると思います
つまり、皮膚を境界とした肉体が自己である、という認識です
ここで、感覚器官の中で最も重要だと思われる視覚が奪われた状態を想定してみます
目の不自由なひとは、杖を持ち、主にその杖の感触によって進行方向の安全を確認します
これは、視覚の代用として触覚を用いていることになります
重要なのは、手(皮膚)で触って情報を認識しているのではない、ということです
だとすれば、身体感覚は杖の先にまで拡張しているといえるでしょう
いいかえれば、杖の先までが「手」である、ということです
+
このような例は、身体の不自由なひとに限ったことではありません
自動車(自転車)を運転しているときに、わたしたちは道路の幅と車幅をとくに比較することもなく、狭い道を通りぬけることができます
また、タイヤから伝わる振動を感じとり、路面状況を認識しています
直進時のハンドル操作は、車体のブレを意識することなく、無意識のうちになされているはずです
このときも、身体図式は自動車(自転車)全体にまで拡張され、組み替えられていることになります
これは、自動車(自転車)そのものが自己の身体である、といいかえることができないでしょうか
+
ピアニストやキーボードのブラインドタッチなども同様です
もちろん道具は手放すことができますから、恒常的に感覚が維持するわけではありませんが、意味論的には理解可能であると思います
逆にいえば、内臓が休まずに機能していることを意識しているひとはいないでしょうから、身体感覚はかなりるルーズなものなのだといえるでしょう
このことは、自己と世界の境界、もしくは世界認識そのものにとって、重要な鍵になります
ならば、このような身体感覚の拡張は、果たしてどこまで可能なのでしょうか
次回に続きま~す
のらにゃんこのうた
2007年08月30日/ 日々の想い

蝶々もひらひらとんでるよ~

…あわてな~い、あわてない…

…ひとやすみ、ひとやすみ…

息が吸える~…息が吐ける~…

…気持ちがよくて~…たまらん~…

ああ~、すばらしきこの世界~…

メルロ=ポンティについて(その1)
2007年08月29日/ やさしい哲学
親が子どもをかわいいと思うのは、「自分に似たところがあるから」ではなくて、まして「他の子どもより姿形がいいから」でもなくて、端的に「自分の子供だから」かわいいのです

それ以外に理由はないし、それ以外の理由を求める必要もありません

逆に子どもの立場からすれば、自分が親にかわいがられる理由が、「親子だから」安心できるのであって、他のもっともらしい理由が出てきたとき、子どもの安心は奪われます

そのような親子関係が根底にない限り、これは愛ではない、ということを子どもは明確に認識しています

高度にも思えるこの認識が子どもに可能になるのは、言葉よりも『肉体が先にあるもの』だからです

ですから言葉の理解力がなくても、「愛」を認識することは、ちっとも難しいことではありません

ここで何よりも肝心なのは、言葉と人間は同時に生まれたのではなくて、人間の肉体が言葉よりも『先に生まれた』ことです

つまり、この世界は思考の結果によって「ある」のではないということです

この世界があるのは、世界にあるものが「見えて」、世界で鳴っている音が「聞こえる」からです

(意識して)見るのではなく…(ただ)見える…

(意識して)聞くのではなく…(ただ)聞こえる…

ここから、「言葉」より微差で「先行する肉体」があり、さらに「肉体」よりも微差で「先行する世界」があることを洞察しなければなりません

ラカン編で確認したように、人間は統合された「わたし」として生まれたのではありません

「拡散した感覚」として世界に投げ出された状態で、生きることをはじめたのです

「わたしが生まれるまえから世界はあり、わたしが死んだあとも世界はありつづける」
このこと全体を経験する契機が、今、ここからはじまります

次回に続きま~す
メルロ=ポンティについて(人物)
2007年08月28日/ 人物
ぼくは、これから始まる「メルロ=ポンティ編」をとおして、どうしても伝えたいことがあります

たとえ伝わらなかったとしても、どうしても伝えたいことがあります

みなさんへの、つたないラブレターのつもりで書いてみます

どうか、最後まで読んでみてください

それに先立って、今回はメルロ=ポンティを紹介します

モーリス・メルロ=ポンティ(1908~1961年)
フランスの哲学者で、フッサール、ハイデガーによる現象学を継承し、新しい存在論の構築を試みました。
その哲学は、身体性や知覚にさかのぼり、自己と対象の認識を、限界まで掘り下げました。
従来の「言語が習得されている」次元からの哲学に、厳しい指摘をしたといえます。
多くの哲学を超える試みがみられ、異文化理解や芸術、看護学などにも、大きな影響を与えました。
主著「知覚の現象学」を経て、大著「見えるものと見えないもの」を執筆中に冠状動脈血栓のため、自宅で急逝しました。
その死によって中断してしまった「見えるものと見えないもの」ですが、草稿は残されていました

そのメモや下書きには、決定的に重要な記述が残されていたのです

それでは次回から、「メルロ=ポンティ編」をはじめます
とろとろり~ん
2007年08月27日/ 日々の想い
昨日は沖永良部漁協で、みへでぃろ市がありました

地元漁師さんの直売なので、安くて新鮮、お魚さんカーニバル&フェスティバルだじょ~

あっ、魚だけじゃなくって超ドデカ伊勢海老さまもいらっしゃいましたっ

思いっきり動いてました…デカイ…ちょっとこわい…

ひとまわりして、キハダマグロの切り身を購入

そして、写真のような晩御飯になったわけです…寿司だあああああ~

そしてひとくち…はああああ~ぅううんまぁあああ~ぅいいい

とろけた…くちんなかで…きえた…

まさにお魚界の、特選霜降り牛フィレステーキや~(彦磨呂風)
エラブのみなさま、みへでぃろ市、おすすめです

っていうか、ぼくがいままで釣ってきた魚っていったい…

ダイエット中の方にも、寿司はカロリーが低いって聞いたことあるじょ

なによりも、地元の食材を地元で食べるって、すばらしいですよね
ハイデガーについて(人物)
2007年08月27日/ 人物
今回は、ハイデガーを紹介しようと思います

マルティン・ハイデガー(1889~1976年)
ドイツの哲学者で、20世紀最大、また難解な思想家として有名です。
ハイデガーの哲学とは、「存在論」につきます。
主著「存在と時間」において、存在という単純かつ壮大な問いを、徹底的に解明しようと試みました。
その難解な主張は、初期ナチスドイツ(ヒトラー)の曲解を受けて、政治利用されてしまいます。
ハイデガー自身も当初は協力的な姿勢を示したため、第2次世界大戦後には公職を追放されました(後に復帰)。
しかし現在にいたるまで、少なからぬユダヤ系思想家がハイデガーの思想に共感を示し、その重要性を認めています。
ナチスとの決別後は、過去の哲学の再解釈や、芸術論を展開しました。
哲学のみならず幅広い分野に、今なお多大な影響力を持ち続けています。
ハイデガーの著書は…ハッキリ言って理解不能です

あえて言えば…拷問です

しかし近年でてきた文書によれば、あえて難解な記述をすることによって、読者の自発的な思考を促したことを示唆しているそうです

確かにぼくも、自分で考えることを放棄して、何らかの思想をうのみにすることは、極めて危険なことだと思います

このブログ(やさしい哲学)を通して、読んでくれたひとと、一緒に考えていけたらいいなって思ってます
ハイデガーについて(まとめ)
2007年08月26日/ やさしい哲学
あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、
存在の声によって呼びかけられ、
<存在者が存在する>という驚異のなかの驚異を経験するのである
前回考察したように、論理的には、宇宙の片隅で人類が生命の歴史をきざむということは、「絶対にありえないこと」です

しかし、まぎれもなく現に事実として、あるはずのない多種多様な事物事象が、今ここにあります

絶対にありえないこと、あるはずのないことの実現、それは、「奇跡」とよぶことをゆるされるでしょう

だとすれば、なにかが当たり前のようにように存在することそのものが、逆説的に、極度に稀有で、奇跡的なことなのだという、論理的な結論になります

だからといって、存在の「無根拠性」や根本的な不可解さを、解消するわけではまったくありません

ですから、存在の不安やニヒリズムを否定しているのではありません

むしろ、(受動的でなく)積極的なニヒリズムこそが、そのまま存在の奇跡の論拠になります

つまり、存在が無根拠であればこそ、端的に、存在は神秘なのです

そうであるならば、このように(今ここで)、さまざまなものごとや人々と、「共にあること」のありえなさにも思いいたることでしょう

誰しもが、親に頼んで生まれたわけではありません

たまたま生まれたに過ぎません

道端の雑草も、空飛ぶ蝶々も、事情は同じです

にもかかわらず、現に、あるはずも、出会うはずもないものどうしが、時と場所を、ともにしています

それは、言葉の真の意味において、奇跡のめぐりあいではないでしょうか…

ここにいたり、「なぜ存在するのか」へのあの暗い疑念や不安など吹き飛んで、端的に「存在すること」や「ともにあること」への驚嘆の想いが、静かにあふれてこないだろうか…

わたしたちは本来、生きることに理由など必要とはしていないのです

世界のなかで存在そのものと戯れること、存在を味わいつくすこと、それが存在の輝きであり、すべてなのです

これで、ハイデガー編を終わります

さて、これまで1か月でラカン、カント、ニーチェ、ハイデガーと進めてきました

読んでくださったみなさん、いかがでしたか

よろこんでくださる方が1人でもいらっしゃったなら、ぼくはうれしいです

ここから先は、いよいよ、ぼくが本当に伝えたかったことを書き進めていきます

どうぞお楽しみに~
ハイデガーについて(その2)
2007年08月25日/ やさしい哲学
驚き・不思議とはほかでもない
この世界が、ぼくたちのまわりに開かれ、立ち起こっていること
なにか在るものが在り、なんにもないのではないこと
物があり、その物のさなかに、ぼくたち自身が存在しているということ
ハイデガーが主張したことは、たったこれだけのことです

前回、「存在」には根拠がない、ということを述べました

逆にいえば、「存在」以外のものには、さしあたっての根拠が存在します

これは論理的な思考が可能で、(現在解明されているかは別として)答えが存在するという意味です

しかし「存在」だけは、いかなる根拠もありえません

根拠があるということは、そのことになんらかの「必然性」があることを意味します

もし仮に、必然的な理由や目的があって、何かがこの世に誕生したのなら、それがあるのは当然なことになります

例えばもしあなたが、しかるべき理由や使命をおびてこの世に生まれたのだとしたら、あなたがこうして存在しているのは当然のことです

むしろ存在しないことのほうが、理屈としてはおかしくなるでしょう

ですからわたしたちは、ものごとの理由を探し、それが必然的かつ運命的であると理解することで、精神の安定を図ります

この健全かつ強固な習慣が、世界をありのままに見ることを妨げるのです

しかし幸か不幸か、そんな必然性が原理的にない、というのが「存在の無根拠性」です

「存在」以外のすべてに根拠があるのだとすれば、「存在」はまったく「偶然」に起こったことになります

「偶然」に起こったことであるならば、「宇宙がある」なんていうことは、論理的には異様なことであり、「ない」ほうが論理的に無理がない、ということになります

わたしたちは、通常、自分や周りの世界の存在を、当然のこととして生きています

しかし、「存在の無根拠性」を前提とするならば、当たり前なのは「非在」、すなわち「無」のほうだとはいえないでしょうか

実は、わたしたちが存在していることそのものが、驚きであり、不思議なことなのです

次回に続きま~す
よだかの星
2007年08月24日/ 日々の想い
この写真、羽ばたく鳥に見えませんか~

ぼく自身はこのとき、宮沢賢治の「よだかの星」という短い童話を思い出しました

「よだか」っていうのは、実にみにくい鳥なんだそうです

思い出したのはこのシーンです

よだかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。
宮沢賢治といえば「銀河鉄道の夜」や、ぼくの学生時代の教科書に載っていた、「永訣の朝」とか「雨ニモマケズ」なんかが有名ですよね

でも実は「よだかの星」も、載せている教科書があるくらいの名作なんです

ただ「よだか」というのは、江戸時代の売春婦を指す名称なので、現在の教科書ではNGかもしれません

下記に全文掲載されていますので、興味があったら読んでみてくださいね

http://why.kenji.ne.jp/douwa/17yodaka.html
そういえば、沖永良部島にも児童文学作家の方が移住なさってましたよね

こんど読んでみよ~っと
ハイデガーについて(その1)
2007年08月23日/ やさしい哲学
今回から20世紀最大の哲学者として名高い、ハイデガー編に入ります

哲学にとって決定的に重要なのは、「宇宙の存在には根拠がない」、ということです

ここではっきりと明示しておきますが、万物の存在には、根拠も理由もありません

もし自然法則を存在の理由にする人がいたなら、ではその自然法則はなぜ存在するのか、と問うことになります

その人がもっと根本的な自然法則にその理由を求めるならば、その根本的な自然法則はなぜ存在するのか、とさらに問うことになります

また、もし神の意志にその根拠を求める人がいたなら、ではその神はなぜ存在するのか、と問うことになります

紀元前から記録が残る問いですが、21世紀を生きるわたしたちも、この問いの外には出られないことがわかると思います

なぜなら、最後の最後に、まるで指の間からすり抜けるように、答えがなくなるからです

だけれども、なぜか、ほんとうになぜか、根拠はなくても、森羅万象は現にこのように、ほら、あります

それらすべてが夢まぼろしだったとしても、その夢まぼろしは、やはり、ないのではなく、あるのです

人間には存在の根拠がわからない、と言っているのではありません

ほんとうは根拠があるのかもしれないけれど、我々にはわからないのだ、と言っているのでもありません

そうではなく、それは、ないのです

なぜなら、もし根拠があるなら、その根拠は存在するのだから、さらにその存在の根拠が問われ、どこかで必ず、なぜか、「ただある」、という地点にいたらざるをえないからです

かなり執拗に、「存在の無根拠性」について書いちゃいました…すみません

だけれども、ここを腹の底から納得していただかないと、先には進めないのです…

このブログの「やさしい哲学」は、夏休みとともに終わりを迎える予定で書き進めてきました

ここまでつきあってくださったみなさま、どうもありがとうございます

どうかもう少しだけ、いっしょに考えながら、おつきあいいただけたらと思います

どうぞよろしくです~
いぬとねこ
2007年08月22日/ ひとりごと
ちょっと今日は、自分へのメモ的な感じで、ひとりごとを書いてみます

さらっと聞き流してやってくださいね

野生動物が死ぬときって、たぶんきっと、しら~っと死ぬんじゃないかと思うんです

しら~っていうのは、あきらめてるわけじゃないんだけど、ジタバタしないというか、いたって普通というか

だけど、ペットとして人間と暮らしている動物(とりわけ犬や猫)って、しら~と死ねないんじゃないかなあ

なんでかっつ~と、ペットたちは人間と生活を共にするうちに、人間的な感情や言葉をインストールしちゃうんじゃないかと思うんです

やつら、ちょっと人間になってるんじゃないかと…

もしこの仮説が本当だとすると、病気になったり死んでいくということに、ペットは悲しいとかさみしいとか、そんな思いを抱いていることになるわけで…

人間社会に組み込まれることで、自然界ではありえない「こころ」が芽生えるっていうか…

だとしたら、まあ当たり前のことなんだけど、本気で彼ら彼女らに向き合わないといけないんじゃないかなあ、なんて

ぶっちゃけ捨てるなんてことは絶対にゆるされないんじゃないかと、まあ、そんなことを思ったわけです

動物の人間化というのが、そもそも正しいことなのかはわからないけど、これはもう100パーセント人間の側の責任であることに自覚的であってほしい、っていうのかな

もしかしたら、おばあちゃんが孫に向けるくらいの目線が適度なんじゃないかなあ、なんて

以上、ひとりごとでしたあ
ストライプ
2007年08月21日/ 日々の想い
言わずと知れたオカヤドカリくんです

でも彼は、ただのヤドカリじゃありません

このファッションセンス…断じてあなどれません

数ある貝の中から選び抜かれたこの一品…う~む、かなり斬新なデザインです

ねえ、彼ったらチョ~イケメンじゃない!?(ヤドカリ事務員・談)
もお~、今晩カラオケセッティングしなさいよ~(ヤドカリ事務員B・クネクネ)
あの若造、なかなかやりおるわい(ヤドカリ部長・談)
これでわが社も安泰ですなっ(ヤドカリ課長・ゴマスリ)
え~っと、何の話でしたっけ…決してネタ切れで適当なことを書いてる訳じゃありません

深夜のテンションで書いてるわけでもありません…

それでは、また逢いましょう

勇気を出してアップ、そりゃっ
龍神
2007年08月20日/ 日々の想い
この写真、最近のお気に入りのショットです
おっきい龍と、その内側にちっちゃい龍が見えません
まあ、見えたからってどうってことはないんですけどね…
ぼくは沖永良部島の空が大好きです
たぶん島全体の大地が平坦だからだと思うんだけど、あまりにも空が広いです
風を感じながらバイクを走らせていると、自分自身が空に溶けていくような、そんな感覚に襲われます
ちょっとカッコつけすぎだじょ~
大感動っ!!
2007年08月19日/ 日々の想い
いよいよ昨日から始まった、和泊町港祭りです

初日のイチ押しイベントはズバリ、相撲大会ですっ

笠石ドームに入りきらない程のギャラリーから、大きなどよめきが何度も起こってました

これ、ヘタなプロ格闘技イベントよりはるかに熱いッス、いやマジで

ぼくは小学校低学年の試合を見たんだけど、彼らなりのプライドを賭けて戦う姿は、もうたまらんのです

2年生のトーナメントは、服の上からマワシを着けた女の子が、どよめきの中あれよあれよと勝ち進んでいきます

そして準決勝、ズバ抜けた体格を誇る男の子に一歩も引かず、土俵際で大逆転っ

最高潮の盛り上がりの中、決勝戦も素早い動きで押し出しました

本当に、見る者すべてに勇気を与える戦いぶりでした

オレはいまぁ…モォォォレツに感動しているうううう~

…いや~、サインもらおうかと思ったよ、マジで

今日は、海上競技や花火大会が行われます

とっても楽しみ~
ニーチェについて(まとめ)
2007年08月18日/ やさしい哲学
つたない幼児が、不治の病に冒されていたとします

両親は嘆き悲しみ、我が子の人生の圧倒的な無意味さに打ちひしがれることでしょう

しかし当の幼児は、苦しみや痛みの表情を浮かべ泣き叫んでいようとも、決して人生を否定したりはしないでしょう

あるがままの人生を、当然のこととして受け入れ、あるがままに死んでいきます

大好物を口に運びながら、もしくは大好きなおもちゃを握りしめたまま眠りに落ちてしまうときと、寸分たがわぬ生きざまを、病に冒された幼児は我々に見せつけるはずです

このような、ある種の「爽やかさ」や「潔さ」は、一体どこからくるのでしょうか…

それは、幼児が言語(意味)を持たないことによる、この一点に尽きます

存在するすべてが肯定されるのは、何らかの価値基準によって肯定されるからではありません

そんな価値基準がないことによってこそ、それらは端的に(比較以前に)肯定されるのです

意味づけと価値による汚染から免れることによって、はじめて、現にそうであることそれ自体、むき出しの事実性が、それ自体で輝き出すのです

ニーチェの思想は、目的なき日々の無意味な繰り返しのうちで、「世界」と一体になって遊ぶ子供の、現在の肯定感そのもののうちに自ずと示されるほかはありません

「社会」から見れば、束の間のこの生は(その内部にさまざまな喜びや悲しみがあるにせよ)、それ自体としては儚く、空しいものに過ぎないでしょう

しかし、そのことを嘆いて、生に外部からの意味を与えるべきではありません

人生の無意味さと空しさから目を背けないこと、それがそのまますべての肯定へといたる道なのだと、ニーチェは主張しています

これで、ニーチェ編を終わります

今日から和泊町はお祭りですね

祭りというのは本来、「社会」を一時的に離れるための儀式でもあります

子供に返って楽しみましょ~
ニーチェについて(その4)
2007年08月17日/ やさしい哲学
ニーチェは、直接的な自己評価こそを究極的な価値基準と考える、という視点を提唱しました
それ以前の社会(道徳)に従属する存在を「駱駝(らくだ)」と呼び、自己評価に目覚めた存在を「獅子」と呼びました
獅子とはすなわち、「おのれの理想をすべての人の理想に対抗して貫徹する強者」を指します
社会を否定し、言語をも否定したニーチェは、一切の妥協を許さない思索の果てに、根本的な矛盾にいたります
それは、そもそも「私たちが自由意志を持つ」という考え自体が錯覚なのではないか、という疑念です
その疑念はやがて、「意識」や「主体」、そして「自我」にまで及びます
私たちが「意志」と呼んでいるものは、気づいたときには既に、「意志」として(本人に)認識されています
だとすればそれは、おのずと湧き起こってくるものに過ぎず、意志とは呼べません
それは、(自らが主体的に)起こすものではなく、(自らに受動的に)起こるものなのです
さらに私たちの日常は、ほとんど「無意識」的に営まれており、「意識」的に行動しているときには、逆にぎこちない不完全なものとなってしまいます
最終的には「主体」や「自我」についても、「社会」的な他者との関係における必要性から、「言語」によって捏造されたものに過ぎない、という結論にいたります…
…では、それらすべてが排除された世界とは、一体どんな世界なのでしょうか…
そこには世界を解釈しようとするものは、もはや存在しません
意味づける存在の否定…そこに存在できるものは、「無垢なる子供」のみに他なりません
ニーチェはそれを、「遊ぶ子供の聖なる肯定」と呼びました
駱駝の「汝なすべし」から獅子の「われ欲す」に次ぐ、無垢な子供の段階が「われ在り」と表現されます
今回は少し難しかったでしょうか…すみません…
次回は「遊ぶ子供の聖なる肯定」を解説して、ニーチェ編のまとめとしたいと思います
どうぞよろしくです~
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地球と遊ぶ
2007年08月16日/ 日々の想い
昨日くらいからようやく、夏・復活!の沖永良部島です

ピークから1日遅れでペルセウス流星群を見て、そのまま朝日を拝みに行きました

う~ん、チョ~久し振りなこの感じ

どんな感じかって?…ヘイヘイ、聞くだけ野暮だぜハニー

…まあ、誰も聞いちゃいないわけですが、ついでに釣りにも行ってきたじょ~

たぶんアカハタだじょ~(@白浜港)
煮つけにしたらギョギョウマッ

今日は海で泳ぎまくる予定だよ~
陸戦型仕様②
2007年08月15日/ 日々の想い
昨日の写真…ゴリゴリの男子には意外と好評だったみたいですう

なので、正面バージョンもアップしておきますです

ゴリゴリの女子も、もしいらしたらどうぞ

ちなみに、ニーチェについて(その3)もアップしたので、こちらもマニアの方々よろしくです~

っていうか、どっちかっていうとこっちがメインコンテンツなんですけど…
ニーチェについて(その3)
2007年08月14日/ やさしい哲学
「ニーチェ語録」
人間とは神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作に過ぎぬのか
※注 引き続き、ニーチェについて(その1)の【※注】を参照の上、「続きを読む」をクリックして下さるよう、
お願い致します。
続きを読む
陸戦型仕様!?
2007年08月14日/ 日々の想い
これ、何だかわかりますか

そうです、和泊港の荷役作業なんかでよく見かける、フォークリフトです

なんですが、普通は黄色っぽい色ですよね

この写真は、大山基地で撮影したものです(ナンバーはNGなので見切れてます)

ぼくのイメージでは、戦車とかの色(保護色?)なんですけどね

所属の車両は、すべてこの色で統一されてるみたいです

唐突ですが…
若干テンション上がりません



ねえねえ、男子のみなさ~ん

まあ、女性はドン引きなわけですが…

しかも男子もそれほどのリアクションではないわけですが…

「あ…そうだね…うん」…沈黙…




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