ラカンについて(まとめ)
2007年07月31日/ やさしい哲学
前回は、幼児が言葉を獲得し、人間化を果たす過程を見てきました

今回は、幼児のその後を含めて書き進めることで、まとめとしたい思います

生まれたばかりの乳児は、目に映る世界すべてがじぶん自身であると考えています

そしてある日、鏡に映るじぶんの姿を見て、じぶん自身の肉体と自己を重ね合わせます

しかしよく考えてみると、鏡に映った映像は常に反転しており、本当のじぶん自身と呼ぶにはかけ離れたものです

文字を書いた紙を鏡に映してみると、不気味なほど奇妙な記号にしか見えないでしょう

そして、じぶん自身を直接見ることは、実は誰にもできません

さらに月日は流れ、幼児には言語がインストールされます

言語は、人間が社会を生きるうえで、必要不可欠なものです

社会は言語(意味)でできているといっても過言ではないでしょう

コミュニケーションのみならず、物を認識することや、考えること、意志を持つこと、感情さえも、言葉を介して行われます

しかし言葉も、先程の鏡と同じく、正確に物事を反映している保証は、実はどこにもありません

わたしが使う「雲」と彼女が使う「雲」は、同じものではないでしょう

「雲」を「愛」に置きかえると、さらにすり合わせは困難になります

さらに「じぶん自身」に置きかえると…

人間は、社会を超えた、本当の私(主体)を探し求めて、さまよい続けます

こうして、人間が社会を健全に生きていく中で、避けがたく、必然的に芽生える疑問があります

宇宙(私)には、始まりや終わりがあるのだろうか?
宇宙(私)には、果てがあるのだろうか?
宇宙(私)には、意味があるのだろうか?
子供の頃に誰もが抱いたはずのこの問いに、再びすべては集約されていくのでしょう
ラカンについて(その4)
2007年07月30日/ やさしい哲学
前回は、幼児にとって最も幸福なときと、その長期化によって幼児的全能感を生き、再び自他の区別を曖昧にしていく過程を見てきました

今回はいよいよ、予告された父親の登場について書き進めていこうと思います

幼児にとってこの時期は、片言の言葉を話し始める時期でもあります

「イヤ~ッ
」という言葉が目立ちはじめ、いわゆる駄々をこねる場面も増えてきます
それまでの母子関係では、幼児に不満を抱かせずに事態を収拾することが困難になってきます

お母さんとしては、子供にじぶんでできることはじぶんでしてほしいと願い、多少のことならば見守るだけの場面が増えてきます

幼児にとっては、お母さんがじぶんに関心を抱かなくなったように感じます

その不安といらだちから、お母さんに対する執着心は強くなるばかりです

そのとき、ついに、父親が立ち上がるのです

お父さんは幼児に対して禁止、すなわち「ダメなものはダメだっ
」と、有無を言わさず、高らかに宣言します
お父さんの隣では、お母さんが静かに頷いています

同様のことが繰り返されるうちに、幼児は悟ります…もうお母さんは、ぼくとひとつじゃないと…

畳みかけるようにお父さんは宣言します

人間の社会は、「言葉でできていること」、すなわち他人と対話することでしか、何も達成できないということを

世の中は思い通りにはならないこと、自分の生きる意味は、自分自身で見つけなければならないことを

「言葉=意味の獲得」こそが、幼児期の子供におけるクライマックスになります

この時期を通過しなかった幼児は、その後、当然のように社会性を見いだせず、より厳しい状況に置かれることになるでしょう

※注 この記事で書かれている父親というのは、「父親的な存在」という程度にお考えください。
必ずしも、実際のお父さんに限ったものでないことを、付け加えておきます。
モンガラカワハギ
2007年07月29日/ 日々の想い
モンガラカワハギが釣れました(@和泊港)

なんでも観賞魚として人気だそうです…

…でもぼくは食べます…なぜなら1匹しか釣れなかったから

しかも刺身で食べます…なぜなら売ってる刺身用の魚は高いから…

ラカンについて(人物)
2007年07月28日/ 人物
これまでラカンについて書き進めてきましたが、今日はひとやすみして、遅ればせながらラカンそのひとを紹介しようと思います

ジャック・ラカン(1901~1981年)
フランスの精神分析学者で、フロイトの思想を応用し、独自の理論を展開しました。
ちなみにフロイトは、精神分析を発明した人で、無意識や潜在意識を発見したことで有名です。
ラカンの思想は精神分析学にとどまらず、現在にいたるまで、哲学・言語学・文学等に多大な影響を与え続けています。
ぼくの個人的な見解としては、誰もが避けられない人間の「宿命」を、ハッキリと理論的に表したひとだと考えています

ですから哲学のみならず、日々を生きていくうえでも、できれば前提として踏まえておきたいなあ、なんて思います
ラカンについて(その3)
2007年07月27日/ やさしい哲学

今回も引き続き、幼児の成長の最終段階について書き進めていこうと思います

幼児はじぶん自身の肉体を自覚することと引き換えに、じぶんとお母さんが別々の存在であることを知ります

しかしこの段階のお母さんは、泣けば世話をしてくれるし、微笑むだけでやさしい微笑みを返してくれます

ときには、何が起こったわからない幼児に、「いたいいたいだね~」などとお母さんが気持ちを先取りしてくれることさえあるでしょう

幼児の側も、お母さんの目や表情から気持ちを読みとり、愛される存在であることを願います

理想的な恋愛関係にも思えますが、このような母子密着が長く続きすぎると、やがて幼児に全能感をもたらすことになります

さらに、肉体を持った自分と他人の境界を再び曖昧にしてしまいます

たとえば、他の子を殴った子供が「あの子がぶった」と言って突然泣き出すことがあります

これは嘘をついているのではなく、目の前で泣いている子に同一化することで自他の境界を見失い、役割を逆転させてあわてて泣き出したのです

このような状況を打ち破る切り札として、次回、満を持して父親が登場するのですっ

すみません、今回でラカンについては終了する予定でしたが、次回に続きま~す

どうぞよろしくです~
ラカンについて(その2)
2007年07月26日/ やさしい哲学
前回は、生後間もない乳児の驚くべき世界観について書きました
今回は引き続き、その後の乳幼児について、書き進めていこうと思います
視界に入るものすべてが「じぶん自身」だと感じていた幼児は、あるときを境に、鏡にとても強い興味を示します
そして、鏡に映るじぶんの姿とまわりの様子を、実際のじぶんのまわりと見比べて、その2つが同じものであることに気付きます
そこから、じぶん自身の肉体を「ひとつのまとまりのあるもの」として理解するようになります
視界すべてに広がっていたじぶん自身を、肉体という入れ物に凝縮して、他のものと区別するということです

これは、はっきりとしたじぶん自身を手に入れるという意味で、幼児に大きなよろこびをもたらします
けれども、視界すべてからの引きはがし、とりわけお母さんとじぶんは「別のもの」であることを、幼児に迫ることでもあるのです
それでは、次回(その3)では、幼児の成長の最終段階について書き進めていこうと思います
どうぞよろしくです~


今回は引き続き、その後の乳幼児について、書き進めていこうと思います

視界に入るものすべてが「じぶん自身」だと感じていた幼児は、あるときを境に、鏡にとても強い興味を示します

そして、鏡に映るじぶんの姿とまわりの様子を、実際のじぶんのまわりと見比べて、その2つが同じものであることに気付きます

そこから、じぶん自身の肉体を「ひとつのまとまりのあるもの」として理解するようになります

視界すべてに広がっていたじぶん自身を、肉体という入れ物に凝縮して、他のものと区別するということです


これは、はっきりとしたじぶん自身を手に入れるという意味で、幼児に大きなよろこびをもたらします

けれども、視界すべてからの引きはがし、とりわけお母さんとじぶんは「別のもの」であることを、幼児に迫ることでもあるのです

それでは、次回(その3)では、幼児の成長の最終段階について書き進めていこうと思います

どうぞよろしくです~

ヘリコプターの体験搭乗(大山祭)
2007年07月25日/ 日々の想い
昨晩は、自衛隊の基地にて大山祭が行われました

定番の焼き物屋台の奥に射的の店があり、隊員の方々が運営なさってました

近づいてみると、小さな子供たちを相手にビリーズブートキャンプ並みの熱血射撃指導が…

「しっかり脇を締めて
」「照準を合わせて
」などなど、熱いゲキをとばされていました
子供たちもちょっぴりその気になっていたようで、微笑ましく拝見しました

その日の午後にはヘリコプターの体験搭乗が行われ、沖永良部島の上空を1周しました

15分程度のフライトだったと思いますが、上空から見る島や海はなんとも不思議な感覚でした…

うまく言葉にできないのですが、それはそれでいいのかな、なんて思っています
ラカンについて(その1)
2007年07月24日/ やさしい哲学
驚くべきことですが、少なくとも生後6か月頃までの幼児は、じぶん自身(の肉体)と視界に入るものを区別できません
つまり、目に映るものすべてが「じぶん自身」である、と感じているということです
この状態は、遅くとも生後18か月頃までに終わりますが、その間、お母さんとじぶんは「ひとつのもの」だと感じています
ところが赤ちゃんは、じぶん自身の肉体にまとまりの感覚を持てず、手足はバラバラに寸断されたものとして感じてしまいます
この状態は人間特有の出生時の神経系の未熟さが原因で起こるもので、今のわたしたちには想像も及びません
わたしたちは、生まれる前のことを知ることはできません
ですからぼくは、生後間もない赤ちゃんを起点として、このブログを始めてみようと思います
読んでいただいた方々に、少しでも興味を持って頂けるとうれしいです
わからないことや記事の感想など、ドンドン書き込んで下さいっ
とりあえずは…はじめまして、どうぞよろしくです~

つまり、目に映るものすべてが「じぶん自身」である、と感じているということです

この状態は、遅くとも生後18か月頃までに終わりますが、その間、お母さんとじぶんは「ひとつのもの」だと感じています

ところが赤ちゃんは、じぶん自身の肉体にまとまりの感覚を持てず、手足はバラバラに寸断されたものとして感じてしまいます

この状態は人間特有の出生時の神経系の未熟さが原因で起こるもので、今のわたしたちには想像も及びません

わたしたちは、生まれる前のことを知ることはできません

ですからぼくは、生後間もない赤ちゃんを起点として、このブログを始めてみようと思います

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とりあえずは…はじめまして、どうぞよろしくです~




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