西田幾多郎について(その1)
2008年06月30日/ やさしい哲学
こ、このお方は、ま、まさかの…
あんた、リリーの何なのさ
港のリリ子
お~きのえらぶじま~
あんた、リリーの何なのさ

港のリリ子
お~きのえらぶじま~

さて…本題に入ります
…これから連載する記事は少し難しいので、理解するには集中を要します
ただ、いままでで最も深いことも確かです
…質問や感想があれば、過去記事に書き込んでください
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった (川端康成・雪国)
上の有名な文章には、「主語」が存在しません

だけれども、わたし達日本人は、比較的すんなりとそれを受け入れ、「誰が」とはあえて問いません

英訳すると、The train came out of the long tunnel into the snow country. となります

英文は必ず主語を必要としますから、主語を「列車」に設定した、というわけです

まあ、主語を「わたし」としても、物語の主人公「島村」としても、別に構わないのかもしれませんね

いずれにせよ、日本人である私たちには、言い知れぬ違和感が感じられるわけです

その違和感の原因は、「誰か」が、もしくは「何か」がその経験をした、ということを意味しないからです


そしてもし、どうしても「主語」が必要だと言われたならば、こう答える以外にありえません

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」、というそのこと全体、それ自体が「わたし」なのだと

それを経験する「主体」は存在しない、つまり、「主体」と「客体」が分かれる以前の描写なのです


西田幾多郎は、このような「主体と客体が合一している」状態を、「純粋経験」と呼びました

わたし達の日常に話を移すと、例えば雷鳴が聞こえたら、「雷鳴が聞こえた」と言います
+
「私は雷鳴を聞く」とは言いませんし、また、稲妻が見えれば「稲妻が見えた」と言います
+
(主体的に)「聞く」のでも「見る」のでもない、ということは、そこに「主体」が存在しないことと同じです

そのときそのように聞こえている雷鳴、見えている稲妻が、そのまま「わたし」であるという主張です
=
この「純粋経験」とは別に、それら(雷鳴・稲妻)を経験する「独立のわたし」など、始めから存在しません

ここに書いたことを先入観なしで、ありのままに想像してみてください
…なんとな~く、感じてください
まずはここまで、理解できたでしょうか
…わかりにくいという方は、過去記事を参照してくださいね
それでは、次回に続きます
続きを読む
Posted by candyball at
12:11
│TrackBack(0)
夏と牛と…
2008年06月18日/ やさしい哲学
なんとなく ドラゴンアッシュ 意味はなし (韻踏めず しかもなぜだか 五七五)


よかったら本文を読む前に、左上「記事タイトル」をクリックしてから、画像真ん中の「▼」をクリックしてね

さてさて、夏です

このブログでは、独断と偏見による季節変わり宣言をしてきたけど、今回初めて気象庁と見解が一致

まずは恒例の脱ぎたて靴下による気温測定によりますと
…フガヌァッ、こりゃまたなかなかどうして、目にしみるほど酸味が利いたフレグランス
…サンジュウドッ
(アホになって)と申しております、はい
夏の日差しってさ、眩しいくらい世界を白くするよね そんでもってさ、夏の匂いがするよ、うん

この時期だけ、誰にも世界が歩み寄ってくる、迫ってくる、身体に浸み込んでくる、そんな季節、好きさ

これを書いてる今、セミが鳴いててさ、庭の木でメジロが遊んでる、アゲハチョウがひらひら飛んでる

空はコバルトブルーで、少しだけ風が吹いてる、ハチが花の蜜を吸ってる、小鳥たちが歌ってる

当ブログ「青ぞらのはてのはて」は、まもなく無期限の休載に入ります

ただし休載に入る前に、原点に返る気持ちで哲学者「西田幾多郎について」という連載記事を書きます

ブログ初期にやってた「純哲学」の記事なので、過去記事を踏まえないと全く理解できないでしょう

なので、連載記事にはコメント欄を設けないつもりでいます

記事自体も気まぐれに書くつもりなので、「読む」という変態な方も、どうか気まぐれにお付き合いください

すべてが終わるまでは、「足跡」を付けてくださった方々のブログにもお邪魔させていただきます

飴玉さんのコメント希望な変態さんは、コメントの最後に「飴コメ希望」とでも書いておいてくださいまし

心残りは、手作りプラスチック板のミニスキーと木の枝ストックを使用しての(with オーバーオール)、
飴玉式パラレルターン・芝生スライダー完全制覇が幻になっちゃったことかな、なんて…

そんじゃ

続きを読む
世界と社会とぼく②
2008年04月24日/ やさしい哲学

「SLUM DANK」で有名な井上雄彦が、現在も連載を続けている2つのマンガを知っているだろうか

ひとつは「リアル」で、簡単にいうと身障者の「車椅子バスケットボール」の話である

ある日突然、それぞれの事情で身障者になった若者達が、もがき苦しみながら、「熱く」生きようとする

「SLAM DUNK」の流れを組むが、身障者であるが故に、社会の中で自らを見失い、再生してゆくドラマ

現在、単行本7巻まで発売されており、ぼくも当然、愛読している数少ないマンガのひとつである

もうひとつは「バガボンド」で、こちらは剣豪「宮本武蔵」の話 …バガボンドとは「放浪者」を意味する

つまり「社会」をとっくに逸脱した武芸者の、生死を賭けた剣の戦いを通した「世界」への志向を描く

現在単行本27巻まで発売されており、いよいよ佐々木小次郎との戦いを迎えようとしているところだ

連載途中からはペンではなく、筆で描かれており、絵画としての芸術的な評価も高い作品である

このふたつが、同時並行で連載されていることは非常に興味深い、とぼくは思う

なぜなら、現代日本に生きる私たちは、「社会」と「世界」を並行して生きるのが理想だと思うからだ

「リアル」もしくは「SLAM DUNK」的な世界観だけで充足する人間は、ぼくのブログなど見ないだろう

人間が生きるということは、「社会」的なことだけでは片手落ちだと理解できる人は、どれだけいるのか

井上雄彦という男は、この両作品を同時進行することで、バランスを取ろうとしているのだと思う

哲学的な境地、そしてそれを「体感」できるレベルまでを、驚くべきことに彼は、「知っている」、はずだ

武蔵のライバル佐々木小次郎を「聾唖者」(耳が不自由な故に言葉を話せない人)として描いている

これは、小次郎が言語を持たないことを意味する、が故に、世界との合一を果たしていることを意味する

一方、武蔵は言語を持つが故に、その限界を知り、それを経由して世界との合一に至ろうとするのだ

死と隣り合わせどころか、死と紙一重の戦いを経て、武蔵もまた、その境地に踏み込みつつある

まあ説明はこのへんにして、ぼくのブログに興味がある人は、ぜひ何らかの形で読んでほしいと思う

両作品ともに、人生の中で何度か読み返したい、と確実に思える作品であることは、ぼくが保証します
滝
2008年04月10日/ やさしい哲学

上の絵は、エッシャーという画家の「滝」という有名な作品で、一見何気ない絵に見える

ところがよく見ると、現実にはありえない水の流れが描かれているという、いわゆる「だまし絵」である

だまし絵が魅力を放つのは、私たちの世界認識や言語体系に、潜在的に同じ構造が含まれるからだ

なにはともあれ、まずは、この絵をじっくりと味わってほしいと思います

前回の記事で、「世界が存在することに意味はない」ということを述べたけど、その実感があるだろうか

もし「ない」とすれば、あなたの世界認識は、このだまし絵のようなものなのだと、ぼくは言うだろう

数学者ゲーデルは、世界を(無矛盾な)論理で語ることが不可能であることを、数式で「証明」しました

この「不完全性定理」は、数学のみならず、現代哲学においても最も重要な発見とされています

つまり、世界や私達の存在理由や、宇宙の果て、神などを矛盾せずに語ることは、完全に不可能なのだ

身近な問題でいえば、私達が生きる理由をもっともらしく語るすべては、ウソだということと同義なのです

例えばそれが「信仰」であったり、「あえて」そのように生きるといった振る舞いならば理解できるのだが

先日語った「偽善」にも通じるけど、強迫的に「理由」や「夢」を求めることは、やはり不自然なのだろう

ところが、この偉大な発見をしたゲーデルもまた晩年に、自らの証明を上回る「神の存在証明」に挑む

無謀な挑戦の結果、彼は精神に異常をきたし、餓死というありえない死に様で、その生涯を閉じた

それほどまでに人は、自らの「存在理由」を欲する …これが、「言葉を持つこと」の「呪い」なのだ

親が子を愛することに、理由はない …同じように、わたし達もやがて、言葉のない世界に帰るのだ
お笑いBIG3を語る③
2008年04月07日/ やさしい哲学

タモリは謎の多い男である
…なので、断片的かつ不確実な情報からの文章になります
タモリの最終学歴は早稲田大学西洋哲学科中退で、座有の銘は「世界に厚みを与えないこと」だそうだ

この言い回しは、哲学に素養のある人間からしか出ない言葉で、「厚み」とは「意味」のことだと思われる

つまり意訳するなら、「生きることを過剰に意味づけしないこと」、ということになるだろうか

一説には、彼が小学生の頃に両親が離婚し叔父に預けられ、さらに事故で右目を失明(弱視)したという

そのような体験は、ただちに「なぜ自分だけが…」という問いを呼び寄せ、必然的に哲学的な思考に至る

著書の「坂道美学入門」の序文で、哲学者ハイデガーとキルケゴールを引用した坂道論を展開している

酔っ払って、たまたま飲み屋に同席した哲学者の大学教授に、哲学論議をしかけたとも語っている

また現在も、中沢新一などの哲学者との交流もあり、一緒に対談形式の講演会をしたこともあるくらいだ

そのような「裏」タモリを踏まえてみると、彼の芸風には、たけしやさんまのような脅迫観念が見られない

ただし「世界に意味を与えない」と言い切るのは、世界の意味を「徹底追及」したあとでなければならない

中途半端なニヒリストほどタチの悪いものはない …そこにこそ哲学の、もしくは思考の「闇」があるのだ

実は子供の頃のぼくは、タモリをつまらない男だと思っていたけれど、大人になってその凄さがわかった

もしかしたらタモリという男は、「哲学」と「笑い」というものがもたらす、最終形態なのかもしれない

ちなみに、あるとき笑福亭鶴瓶が「自分やさんまの話の腰を折るのはなぜか」と、真剣にタモリに聞いた

タモリの答えを聞いた鶴瓶は、タモリが君臨する理由を見抜き、「テレビの師匠」として仰いでいるという

「おまえやさんまは、笑いを取りに行こうとする。それが当たり前になると、帯番組はマンネリになる。
だから一番山のところで叩く。そうすれば何かを考えるだろう」と答え、タモリは予定調和を否定したのだ

ちょっと大袈裟に書いちゃったけど、本当のタモリという人が伝わってくれたらいいなと思います、はい
お笑いBIG3を語る②
2008年03月20日/ やさしい哲学
フロイトの精神分析によると、人間はエロス(生の欲動)とタナトス(死の欲動)を併せ持つと言われる

その表現のされ方は、男女で明確に分かれるが、リアルな「死」に対する衝動は男性に現れると考える

例えば男女ともに自殺を試みることは多いが、実際に死ぬのは男性の方がはるかに多い

誤解を恐れずにいえば、女性は生きるために、自ら不幸を招き寄せるという手段を選択することがある

自己に対するサド的な攻撃性(エロス)がリアルな死(男性)をもたらし、自己に対するマゾ的な死の衝動(タナトス)が逆に生(女性)をもたらすなど、その欲動は複雑に入り組んで表現される

つまり男は死んで生命以前に回帰しようという欲求が強く、女はひたすら生き延びようとする欲求が強い

北野武は典型的な男性型であり、明石家さんまは典型的な女性型であると思う

さんまの芸とは、哲学でいうところの、ジャック・デリダが提唱した「脱構築」という概念と非常に近い

脱構築とは、言語を固定化することを回避し続け、ずらし続けることで、「意味」を脱臼させることである

例えばさんまは、「セックス」を「えっち」、「離婚」を「バツイチ」と表現し、現在広く一般に定着させた

これによって、言葉の本来意味するところをずらし、その意味を変容させることに成功したのだ

哲学的な例をあげると、「自由」という概念は、現代において絶対的であるとされている

しかし、自由でいなければならないという不自由からは、逃れることができない

また、「意味」の反対語は「無意味」であるが、結局は「無意味」という「意味」でしかありえない

人間は言語体系の外に出られないのであれば、その業さえも「笑おう」とするのが、明石家さんまである

ジャック・デリダは、哲学者らしからぬ言い回しでこう語っている …「脱構築は正義である」と

このテーゼに従うなら当然、差別ネタは「笑い」に魂を売った者にとって、絶対的な正義となりうる

笑いの裏には「悲しみ」がある …笑いとは、「社会」をなんとかやり過ごそうとする、悲しき永久運動だ

明石家さんまもまた、北野武と同様、社会内にとどまり、世界へと脱皮できないでいる
お笑いBIG3を語る
2008年03月19日/ やさしい哲学
ぼくは個人的に、「笑い」と「哲学」というのは、かなり近接していると思っている

北野武は、ぼくがモノゴコロついた頃には存在していたし、少年期のぼくに絶大なる影響を与えたと思う

彼がやったことは、端的に言うなら、すべての価値の「破壊」である

そういえば漫才時代の有名なフレーズに、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ってのがあったっけ

「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」、「寝る前に、キチンと締めよう親の首」ってのもあったらしい

そんなこんなでPTAや先生や識者は、こぞって彼を目の敵にしていたが、人気が衰えることはなかった

そんな彼は1986年に「フライデー襲撃事件」を起こすも、半年の謹慎の後に復帰し、映画を撮り始める

テレビのバラエティ番組と並行して撮られたその映画は、暴力(死)と映像の美しさに満ち溢れていた

そして彼は、すべての価値を破壊しつくした先に残った、自己の破壊、つまり「死」に魅せられてゆく

中でも前作に続き沖縄で撮影された、映画4作目の「ソナチネ」(1993)は、彼の最高傑作だと思う

公開直後の1994年、「バイク事故」を起こす …この事故は限りなく「自殺」に近かったと思っている

本人は記憶がないと言っているが、事故現場の下り坂からブレーキ痕は見当たらなかったという


断じて、後の窪塚洋介の飛び降りとは違う …あれはきっと、本人が空を飛べると思い込んだだけだ

麻痺した顔面で記者会見に登場した北野武は、限りない衝撃を残し、芸人「ビートたけし」は、死んだ

北野武とは、過去記事で取り上げた哲学者ニーチェと同じ道を歩んだ人物だと、ぼくは思っている

限りない純粋さと孤独を背負って社会を破壊し、最終的には自己破壊に至るという道筋…

そういえばニーチェが、こんなことを言っていた

私は聖人にはなりたくない、ピエロの方がましだ……ひょっとすると私はピエロなのかもしれない……
だが、それにもかかわらず、いやむしろ「それだからこそ」
というのは聖人ほど嘘で固まったやつらはほかにいないのだから……私が語ることは真理なのだ。
しかし、私の真理は恐ろしい。
なぜなら、これまで真理と呼ばれてきたものは嘘だったからだ。
フローティングシェル
2008年02月29日/ やさしい哲学
今日は2月29日、4年に1回の幻のような日なので、ちょっと普段書かないようなことを書きますね

先日、宇宙飛行士が体験した「宇宙との一体感」の記事を書きましたが、みなさん憶えていますか

でもぼくたちは地球という「重力下」に住んでいるわけで、実際に宇宙空間へ行くってことは難しいです…

ところでこのブログでは、宇宙との一体感を阻む「壁」として、まずは「言語」があり、最終的には「肉体」があるということを、繰り返し伝えてきました

さて、写真の箱は「フローティングシェル」と言いまして、中には深さ25センチの、素っ裸で横たわると人体が浮かぶように調整された液体が入っています

水温も人体と同じ温度に調整されていて、フタを閉じると完全に真っ暗になり、一切の音を遮断します

ここに人間が入ると、いわゆる五感の感覚遮断状態になり、自己の肉体の感覚が失われます

そのとき、肉体から解き放たれた精神は… という装置なのですが、正直ぼくはあまり語りたくない

なぜなら人類はまだ、このような装置を扱えるとは、とても思えないからです

この結果得られた精神状態を「解釈」しようとすれば、人は簡単にスピリチュアル的なものに流されます

ハッキリと記しますが、宇宙との一体感を、言語で「再」解釈することは不可能だと、ぼくは思います

極論すれば、そんなものは死ねばわかるのであって、言語に差し戻すことは無意味だと思うのです

またこのような状態は、被暗示性が高まり、簡単にいうと「洗脳」されやすい精神状態になっています

実際、地下鉄事件を起こした某団体は、このような装置とLSDという薬物を用いていました

また、幻覚や幻聴、抑圧されていたトラウマに出会うなど、精神に異常をきたす可能性もあるでしょう

そして、幻覚や幻聴を、「神」などと呼び始める人も、必ず出てくると思われます

人間の脳は、ある状態に置かれると、幻覚や幻聴を経験するようにできているだけのことです

それにとらわれて、微少な情報処理装置である、言語で再解釈すれば、カルト宗教の出来上がりです

とここまでは脅すようなことを書きましたが、使いようによっては有用なのは、確かに事実でしょう

さて、ここでぼくがオススメしたいのが、真っ暗にしたお風呂で、ゆったりと湯船につかるという方法です

なんといってもこれならタダだし安全で、しかもかなりのリラクゼーション効果を得られることでしょう

同時に、トイレでいいアイディアが浮かぶのと似た感覚も得られる、という特典がつきます

フローティングシェルの環境は、いわば子宮内の赤ちゃんに近い状態だと思われます

そういえば小さい頃、悲しいことがあると布団の中に頭から潜って、不思議と落ち着いた記憶があります

そんなこんなで、ちょっと今日は、特別な記事を書いてみましたあ
宇宙から見た地球
2008年02月22日/ やさしい哲学
先日NHKスペシャルで「ウェイクアップコール~宇宙飛行士が見つめた地球~」って番組が放送された

宇宙飛行士が聴いていた音楽とインタビュー、そして宇宙の映像で構成されたドキュメンタリー

これが予想以上に素晴らしくてね~、見てない人は再放送があったらぜひ見てほしいなあ、と思う

ちょっとインタビューの内容を書いてみるので、雰囲気だけでも感じてもらえれば、いいかな、うん

人間にとって重要なのは、自分が何の一部なのかを理解することです
あの日、宇宙から見たものが、とても大切に思えました
私はあの日感じたことを、誰かと共有したいと思いました
宇宙がどれほど広大で奥深く、そして私達の地球がどれほど貴重なのか
宇宙から、地球の様々な姿を見つめることができた
私は深く感謝したのです
宇宙から地球の姿を見つめるのは、とても大切なことです
驚きと美しさに満ちた地球
いつかあなたにも、宇宙から地球を見る機会が訪れますように
すべてへの畏怖と共に、ここにいる幸運に
…宇宙にて フランク・カルバートソン(ディスカバリー)
彼らがスペースシャトルの中で聴いてた曲っていうのも、なかなかよくてね

ルイス・アームストロングの「What A Wonderful World」とか、ジョン・レノンの「Imagine」とかね

そんでもって今度は、宇宙飛行士が地球に帰還する前日に、奥さんに送ったメールなんだけどね

この日僕は、はじめて宇宙を実感した
僕は生まれ変わったような気がする
とても素晴らしかった
自分を宇宙の一部と感じたんだ
星々と共に、僕も3次元の世界を漂っている
宇宙は果てしなく、深く、銀河は星くずのようだ
正に驚きの世界だ
愛している
明日は会えるね
イーラン・ラモン 16日目 コロンビアにて(翌日、着陸直前にシャトル爆発、死亡)
Ⅰ
イチローという男
2008年02月10日/ やさしい哲学
先日、「あしたの、喜多善男」の裏で録画した、「プロフェッショナル」でのイチローのインタビューを見た

毎回思うけど、この男はもはや野球人ではない…他の選手とは別次元で、ひとり修行しているのである

彼は10年以上同じバットを使っているそうだが、バット工場で最初に握ったときの直感で決めたという

そのバットというのが極限まで削り込まれた細いバットで、通常の野球ではありえないシロモノなのだ

普通バットというのは、俗にいう「シン」の部分があって、その範囲でボールを捉えるといい当たりが出る

しかしイチローのバットは細すぎて、ほとんど「シン」がないのである

それ以上に驚いたのが、イチローは決して自分のもの以外のバットに触れないのだという

他人のバットを握ると、その感触が手に残って、リアルに気持ち悪いというのだ

これを哲学的に解説すると、イチローにとってバットは「道具」ではなく、自分の「手」もしくは「腕」なのだ

バットを身体化することで、バットの先にまで神経を届かせ、操作性を最大限に高めているわけ
+
この感覚を、かつて「やさしい哲学」のメルロ=ポンティ編で解説したのを憶えているだろうか

[参照]
http://candyball.ti-da.net/e1718088.htmlイチローが「哲学」を学んだとは思えないから、彼は自らこの感覚を会得し、意識化していることになる

ちょっと女性には伝わりにくいかもしれないけど、これは本当に、驚くべきことなのだ

ちなみにこの感覚をさらに拡張して、極限まで広げることができたとき、「わたしは世界になる」というのが、本ブログの立場なのだが…


愛する人のために
2008年01月06日/ やさしい哲学
60
さながら風が木の葉をそよがすように
世界が私の心を波立たせる
時に悲しみと言い時に喜びと言いながらも
私の心は正しく名づけられない
休みなく動きながら世界はひろがっている
私はいつも世界に追いつけず
夕暮れや雨や巻雲の中に
自らの心を探し続ける
だが時折私も世界に叶う
風に陽差に四季のめぐりに
私は身をゆだねる
私は世界になる
そして愛のために歌を失う
だが私は悔いない
谷川俊太郎 1953
こちらをクリックしてね
続きを読む
最後の「神」②
2007年12月31日/ やさしい哲学
前回は、イエスと仏陀の主張を通して、人間の「言語体系」そのものが、世界認識の障壁となっていることを説明しました

イエスは「神の無条件かつ一方的な愛」を、仏陀は「神を含めた世界の空性」を主張したということです

ところでぼくは、前回の記事中で、イエスと仏陀が根底的な部分で同じことを主張していると書きました

矛盾しているように感じられる2人の主張ですが、ここで問われるのは、イエスと仏陀の「神」の定義です

これを統合する論理として、17世紀の哲学者スピノザが主張した「汎神論」を提示したいと思います

「汎神論」とは、単純にいえば、「神すなわち世界」です

つまり、この宇宙に存在するのは「ただひとつの実体のみ」である、という主張です

その他に存在するかのように見える、すべての個別的な物体及び事象は、同じ「ひとつのもの」からの流出に過ぎないとします

だとすれば、私たち自身も含めた「個別性」というのは単なる見かけ上のものであり、世界の中で名づけられ、実体的に振舞うすべては、「幻想」であるということになります

「汎神論」は、当時のユダヤ教及びキリスト教から非難され、「無神論」として長らく封印されてきました

「神すなわち世界」という主張が「無神論」であるかは、最終的には私たちの認識に委ねられる事柄です

しかし、言語認識の限界領域であるこの言葉は、現代だからこそ再吟味される価値があると考えます

たとえば現代物理学が示すように、物質とはかなり不安定な存在であることが明らかになってきました

身近なところでも、分子生物学は食物連鎖のみならず、世界を構成する物質は互いに入れ代わり、循環していると主張します

また、世界を象徴する「自然」の中に身を置けば、ときに私たちは、自我境界を見失うことがあります

このあたりのことはブログの初期に記しましたので割愛しますが、確固たる精神というものも、実はかなりあいまいなものなのです

この主張を受け入れる見返りなど何もなく、ただ私たち自身が世界そのものである、というだけです

この驚くべき主張には、私たちの存在理由も意味も、何もありません

「私たちが生きていること」そのものを、ただ静かに、ありのままに肯定するのみです

ただし、ここから逆変換してみることで、社会的な事柄は全く別の様相を見せ始めることでしょう

私たちが生まれる前から「世界」はあり、私たちが死んだあとも「世界」はあり続ける…

この当然かつ受け入れがたい真実を、「よろこび」とともに実感するための契機が、ここにあります
最後の「神」
2007年12月30日/ やさしい哲学
このブログの「やさしい哲学」では、7月~8月にかけて哲学の基礎理論を、9月~現在までは実践理論を書き綴ってきました

9月からの記事では、「社会」、「道徳」、「神」、「言語」などを徹底的に解体してきたつもりです

それを通してぼくが伝えたかったのは、「言語」で語られるすべての価値は、正にその言語によって、あらかじめ汚染されているということです

たとえば「正義」という概念は、「悪」という概念から独立して意味を成すことができません

絶対的な「正義」などなく、すべては相対的な価値でしかないことを、始めから露呈しているわけです

「幸せ」という概念は、「不幸」という概念から独立して意味を成すことができません

ならば、絶対的な「幸せ」という概念も、始めから存在していないということです

しかし人類は、そのような「言語体系」の外に出ることができません

その結果、「神」という究極的かつ社会的な「ゴミ箱」を作って、そこにすべてを集約することで、延命を図ってきたのです

ですから仏陀は、「神」は存在せず(仮に存在しても神を含めて)、すべては「空」であると主張しました

独立して永遠に存在するものなど何もなく、すべては縁起によって成立しているとしたのです

またイエスは、キリスト教とイスラム教の原点であるユダヤ教の「神との契約概念」を否定しました

その上で、「神はすでに我々と共にある」、もしくは「神は無条件に人間を愛している」と主張したのです

人間が何もしなくても、「神の一方的かつ無条件な愛」によって、和解を果たしているということです

ハッキリ記しますが、イエスの死による「贖罪」という概念は、本人が主張したのではないとの立場です

こういう社会的な操作が、「神との契約概念」の温存を意図していることを、読み取らねばなりません

ところで、この2人の主張は、根底的な部分で同じことを言っていると、ぼくは考えます

人間の何らかの「正しい」営みが、その人に返ってくるという「御利益主義」を否定したこと…

より本質的に捉えるならば、「正しい」などという、「言語体系」そのものを退けているわけです

明日は、そのあたりを哲学的に解説して、ここ数カ月の締め括りとしたいと思います

どうぞよろしくです~
映画と哲学
2007年12月27日/ やさしい哲学
「マトリックス」といえば、元ネタとして押井守のアニメ「攻殻機動隊」が取り上げられることが多いけど…

実は哲学&宗教ネタがふんだんに散りばめられてるんだよ、知ってた

たとえば主人公ネオ(neo)のスペルをイジルとoneになり、選ばれし救世主(キリスト)を指すとか

トリニティという写真左側の女性の名前は、キリスト教で三位一体(父と子と聖霊)を意味するとかね

もちろんストーリーも含めて、まだまだたくさんあるんだけど、ここでは省略

さて今回は、哲学も取り上げられてるんだよ~っていうお話

マトリックスという言葉を「仮想現実」として使い始めたのは、ジャン・ボードリヤールという哲学者なのだ

ちなみに著書の「シミュラークルとシミュレーション」は、実際に劇中にも出てくるよ~(写真参照)

また出演者やスタッフは、監督からこの本を読むように指示されてから撮影に臨んだのであるっ

さらに、パート2以降はアドバイザーに迎え入れようとしたけど、残念ながら断られちゃったよ、はは~

つまり、この哲学書を実写化しようとした試みが、映画「マトリックス」なのである…ビックリした

もうひとつの哲学ネタは、写真の図の「水槽の脳」というお話

これは正に、マトリックスに出てくる「人類養殖システム」の元ネタだと言われてるんだよ~

こちらは1982年に哲学者ヒラリー・パトナムによって定式化された思考実験です

脳が死なないように培養液に浸し、神経細胞に電極をつないで高性能コンピューターに接続する

そうすれば、コンピューターの制御によって、脳だけで仮想現実の世界を体験できるはずだってお話ね

こんな風に、奥深い映画やアニメには、宗教や哲学の世界観を借りてきたものが多いんだよ~
存在意義[解説]
2007年12月26日/ やさしい哲学
人が自らの「存在理由」を知ろうとするなら、自分よりも「大きなもの」にその原因を求めることになります

これは論理的必然で、幼児のうちは、母親に自らの存在理由を求めます

ここで承認を得られなかった人は、その影響を後々まで引きずることになるでしょう

その後、人は成長するに従って、学校生活の中に存在理由を見出そうとするようになります

ここから、人間の「社会化」が始まることになるわけです

学校であれ、実社会であれ、そのメカニズムは本質的に変わりません

これが、私たちの「存在意義」を隠蔽する、「洗脳的な」社会システムです

いわゆるひとつの映画「マトリックス」なのです

浩の論理が圧倒的に浅いのは、このシステムに対する「無自覚」から来ているわけです

つまり、社会の外側に広がる「世界(宇宙)の存在」への思考が遮断されているということです

ブタさんは、浩を「ネオ」のように覚醒させるべく、再三に渡って指摘していたわけです

しかし、ブタさんは「モーフィアス」には成りきれず、逆に社会に取り込まれて物語は終息をむかえます

このブログでは、そこからまだまだ、はるか彼方へと話を進めていこうと思っています

どうぞよろしくです~
存在意義⑤
存在意義④
たしかなもの③
2007年12月21日/ やさしい哲学
前回はデカルトが、疑えるものすべてを疑った末に、「我思う、ゆえに我あり」こそ、ただひとつの確実なことである、と主張したことを確認しました

デカルトはその後、数学者&科学者としての必然性から、物理世界を取り戻す必要に迫られます

困った困ったデカルトは、「私」と「物」の仲介者として「神」を持ち出し、強引に存在証明しちゃうわけです

その結果、確実なものとしての「思考する私」つまりは「こころ」と、神が作った「物理世界」すなわち「物」を、別々のものであるとする「物心二元論」を主張することになります

これは現代に至る重要なターニングポイントで、後の科学文明の基礎を作ったといってもよいと思います

ちなみにデカルトは、「慣性の法則」や「x軸y軸の座標」などを発見したスゴイ人でもあります

とここまではよかったんだけど、やっぱりここから、強引な「神の存在証明」のツケが回ってくるわけです

「物心二元論」は、人間の「こころ」が歩こうと意図したら、「からだ」が歩きだすことに矛盾が生まれます

痛い所を突かれたデカルトは、再び「こころ」と「からだ」の仲介物質を持ち出し、強引な説明をします

でも前回「神」で逃げ切れたのはキリスト教世界だったからで、さすがに今回はドン引きだったわけです

そしてデカルトは、歴史の表舞台からフェードアウトしていくことになります

同時に「神様問題」も、次世代に引き継がれていくことになります

次回は、「神」についての全く新しい地平を提示した哲学者について語ってみようと思います

どうぞよろしくです~

※注 ところで最近このブログでは、直接間接問わず、「神」について言及することが増えています
しかしこれは、何らかの信仰を持つ人にとっての、神に対する「信仰」を否定するものではありません
むしろぼくは、自らの信仰をとことん吟味することこそ、「本当の」信仰行為であるとすら考えます


